【四】いたらぬ親にもつくせ

不孝者は不義理者、武士の資格なし

 武士というものは、親に対する孝行をどれほど尽くすかによって、その値打ちが決まるものである。
例え、その知恵、才能が人に優れ、弁舌爽やかで容貌が良くあろうとも、親に対して不孝なものは、何の用にも立はしないのである。

 その訳はといえば、武士道においては、本と末ということを知って、それに正しく対処することを大切に考えるからである。
本末についのて理解が浅くては、義理を知ることはできず、義理を知らぬものは武士とはいえない。

 さて、本末を知るということだが、親とは我が身の本であって、我が身は親の肉体の末である。
ところが末であるところの我が身を第一に考える心があると、それが原因となって、親を粗末に扱うようになるのである。これが本末を知らぬということなのだ。

申し分のない親には、尽くしてあたりまえ

 また、親に孝行を尽くすといっても、それには二通りの姿がある。
 第一には、親の気持ちが素直であって、心からその子を愛し、教育にも熱心で、そのうえ人並み以上に優れた知行に添えて、武具、馬具、家財までも不足なくとり揃え、よい嫁までも迎えて、なに不自由なく家督を譲り渡してから隠居して引きこもった親などに対しては、その子が、通りいっぺんの孝行をした位では、別に感心することもなく、ほめることとてない。

 それというのも、全くの他人同士であっても、お互いの気持ちが深く通じ合って親密となり、こちらの生活上のことまでも心配してくれるような人に対しては、こちらもいい加減にはできず、人目のないところでもその人の事を第一に考え、自分のことは後回しにしても、その人の為ならば・・・という心になるもんである。
ましてや、自分の親である人が、深い愛情をもって物心ともに余すことなく教育してくれたとするならば、その子供としては、どれだけ孝行を尽くそうとも、これで十分と考えてよいものではない。
それであるから、一通りの孝行であっては、感心することも、ほめることもできないというのである。

 これに対して、親の気持ちが素直ではなく、しかも、もうろくしてひがみっぽくなり、くだらぬ理屈ばかり言って、息子には何一つ譲ってやった訳ではないのに、生活に苦しむ息子に養われているのだから満足るればよいものを、その分別もなく、朝夕の飲物、食物、衣類などについても、いろいろのねだりごとばかり言い、さらには他家の人に行き合えば、
「倅が不孝者なので、この年になって思わぬ苦労、お察しのつかぬほどの目にあっております」
などと言いふらして、我が子の面目を失うことも少しもかまわない・・・。
このような心得違いの親に対しても、親として尊敬し、取りにくい機嫌もとり、ただただ親が老衰したことを悲しんで、毛頭も粗末にせず、孝行の誠を尽くすような者こそ、真の孝子ということができるのである。

孝子は逆境の主君をも捨てぬ

 この様な根性のある武士であるならば、主君に奉公する身とはなっても、忠義の道をもよくわきまえるものである。
その主君の威が盛んな時はいうまでもないが、例え主君のお身の上に思わぬ事態が起こり、非常な苦境に立たされような時にも、かえって増々真の忠節を尽くし、味方百騎が十騎となり、十騎が一騎となっても、主君のお側を離れることなく、幾度となく敵の矢面に立ち塞がって主君をお守りするといった忠義の武勇を勤めるに違いない。

 それというのも、親と主、孝と忠と、その名が変わっているだけで、その元となる心の誠はただ一つなのだから。
したがって、古人の言葉にも「忠臣は孝子の門に求めよ」と云われているという。

 例え親に対して不孝ではあっても、主君への忠義はまた別のことであるなどという事は、決してあり得ない道理である。
自分の身の根本であるところの親に対してさえ孝行を尽くすことができぬほどに至らない心で、自然の繋がりではない主君の恩を身に感じて忠義を尽くすことができる訳がないではないか。
家において親に不孝な子は、世間に出て主君に仕えるようになっても、絶えず主君の威勢を気にして、もしも落ち目になったと見れば、さっさと戦場を捨て、あるいは敵方に内通、降参などの不忠を働くというのが古今を通じての例である。
まことに恥ずかしく、戒むべきことではいか。

 以上、初心の武士の心得のために申すものである。

【内省】

時代的には、受け入れられない人も多いだろう。
ましてや、現代では児童虐待やネグレクトなど、尋常ではない事態も多い。
その様な環境に育った子に、出来の悪い親でも愛せというのは酷であろうと思う。

けれど、この「親」を「異性」、「主君」を「私(自己)」と
置き換えてみてはどうだろう?

自分の順風満帆の時には、男も女も寄ってくるが
いざ落ち目になったとき、文中で言うならば「主君が落ち目になったとき」
「自分が落ち目になったとき」
離れず側に居てくれるのは、どんな人だろうか。

それを考えると、友山の言う事にも
一理あろうかと思う。

離婚を二回した私である。

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