自分と向き合う
体を酷使する仕事(プロレス)、酒を飲む仕事(BAR)
その両立と労働時間、養育費に子供との関係
色んな事の重責と、自分の体力の限界。
年齢によって、失われていく自分の限界値からの焦り。
そんなものの中、考える事を放棄して
自暴自棄になってしまう自分がいます。
そんな事ではいかんと
自分を責めても、それが更に自分を追い込むことになり
より自暴自棄になってゆく
そうした中、ふと若い頃の自分が好んで読んでいた
生き方の指針となった「本」
武道初心集を再度読み直し、文章にする事により
再度、自分と向き合ってみようと思いました。
「初心」をもう一度
自分では、もっと成長してると思ってましたが
またここに、戻ってきましたね。
武道初心集
武道初心集は、大道寺友山という江戸時代の武士が書いた書物で
初心の武士、武士なりたての侍が、武士としていかに生きるかを説いたものです。
その考え方には、とうぜん賛否両論あるでしょうが
一つの考え方・思想として
貴重なものだと、私は思っています。
常に死を思い、生をまっとうする
一日一日を今日が限りと心得よ
武士というものは、正月元日の朝に雑煮の餅を祝おうと箸をとった時から、
その年の大晦日の夜に至るまで、毎日毎夜のように、死ということを心に覚悟するのを第一の心がけとするものである。
常に死を覚悟しておきさえすれば、忠孝二つの道もはずさず、さまざまな危険や災難にもあわず、健康のうちに長く寿命を保ち、さらには人格までも立派になるなど、多くの利益があるものである。
その訳はといえば、そもそも人間の命というものは、夕べの露、朝の霜にたとえられ、
まことに儚いものとされている。
とりわけ危ないものは武士の命であるのに、人々はいつまでも長生きができるかのように勝手に思い込んで、主君への奉公も、両親への孝行も、末長くできるもののように考えることから、主君への奉公を怠り、両親への孝行もいいかげんなものとなってしまうのである。
わが身命は、今日はあっても明日はないものとの覚悟さえあるならば、主君に対しても今日が奉公のしおさめ、親に仕えるのも今日が限りと思うようになり、主君の御前で用を承るにも、両親の顔を拝見するにも、これが最後となるかもしれぬとの気持ちにならずにはいられまい。
それであるから、死を覚悟する事が、忠孝の道に一致するというのである。
【内省】
最近、知り合いが亡くなったり、危篤だという話を聞く事が多く、どうしても気が滅入ってしまう。
ただ不思議なのは、故人が亡くなってから急に聖人化したり、嘆くという現象を見ることである。
私はいつも、この人に会うのはこれが最後かもと覚悟していたので、できる限りの事を、今できる限りの誠実さでしたいと思っていた。
この世に居ないのは、悲しいといば悲しいが、いつも最大限の自分にできる誠実さで接していたので、後悔はない。。
軽率が災厄を招く
また、死の覚悟を忘れて油断するところから、慎重さを欠き、人の感情を害することをいって口論となり、聞き捨てにしてもようようなことまで聞きとがめて議論し、または意味もない遊山見物や人ごみの中を歩き回っては、得体のしれない馬鹿者にぶつかって思わぬ喧嘩を起こし、命を失って主君の御名前を汚したり、親兄弟に迷惑をかけたりするのも、すべて死をつねに心に覚悟することを忘れたところから起こる災難である。
つねに死というとを心にきめているならば、一言一言を大切に考える武士としての心がけによって、人にものをいい、または人のことばに返事をするようになるから、意味もない口論をしたり、人が誘ってもくだらぬところへ出かけたりするようなこともせず、思わぬ危険に出合うこともない。
様々な災難からのがれられるとは、このことを言うのである。
【内省】
真に耳が痛い。私はよく酔って暴言(自分にその気がなくても)を吐いてしまい、よく失敗している。
記憶もそうだが、酒の量が一定量を超えると、脳に敬語を使う余裕もなくなるようだ。
処理速度が追い付かないのである。フリーズに近いだろう。
そして、発言をオブラートに包んだり、相手の気持ちを慮るということを忘れて人を傷付けてしまうのである。
欲望をおさえ、末長いご奉公を
身分の高い低いにかかわらず、人々は死の覚悟ができていないために、過食、大酒、淫乱等によって健康を損ね、内臓の病気を起こしたりして、思わぬ若死をし、たとえ生きてはいても、なんの用にも立たぬ病人となったりするのである。
常に死を覚悟さえしえちさえずれば、まだ年若く、健康ではあっても、普段から衛生に気をつけ、飲食を過ごさず、色の道をもつつしむように心がけるから、その身も健康となって、病気ひとつぜずに長寿を保つことができるのである。
また、死を遠い先のことと思えば、この世にいつまでもいられるものと考えることころからいろんな欲望がおこり、人の物を欲しがり、わが物を惜しみ、まるきり百姓町人のような根性になり果てるのである。
常に死の覚悟を定めておくならば、この世は儚いものと達観できるから、ものごとを貪る気持ちも自然と薄くなり、欲しい、惜しいといった汚い根性も、それほど出てこないものである。
死を覚悟する事によって人格までも向上するというのは、これを言うのである。
もっとも、死を覚悟するとはいっても、吉田兼好が徒然草に書いている心戒とうい僧のように、ただ一日中、自分の死を待ちかねて、ちぢこまっているようでは、出家仏弟子の身で修行をするものの心がけとしてはともかく、武士の修行のあり方としては相応しいものではない。
死というものをそのように考えていたのでは、主君や親に忠孝を尽くすこともできず、武士としての職分も果たせないから、まことに困ったものである。
公私ともに昼夜となく責任を果たして、いくらか体に暇ができて心静かなときには、忘れず死の覚悟を新たにせよということなのである。
楠正成が子息の正行に諭した言葉にも、「つねに死をならえ」といったと聞いている。
以上、初心の武士の心得のために申すものである。
【内省】
まさに「つねに死の覚悟を」オジサンである。
今の若い子にとっては、狂気に映るかもしれない。
食・酒・女、様々な欲望に打ち勝ち、身を慎むのも、大事な者を守るため(私なら家族)だと言うことなのだろう。
しかし、現代は誘惑も多い。そして、いくつもの過ちを繰り返しながら前に進むのも人生だと思う。
過ちを犯したことのない人間は、他者の過ちに対しても、寛容になれないような気もする。
しかし、友山のいうように
いくらか体に暇ができて心静かなときには、
覚悟を新たにしなければと思う。
私は馬鹿だから、すぐに忘れるからね!!
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