【二】勝負の心がまえを忘れるな

勝負の心がまえを忘れるな

武士というのは、居ても立っても、四六時中の間
勝負の心構えを忘れることなく暮らすことが、なにより大切とされている。

わが国においては、外国と違って、どれほど身分の低い町人、百姓、職人であっても、それ相応に錆びた脇差の一本ずつも所持するが、これは武の国、日本独自の風俗であって、永遠に変わることのない神聖な伝統である。

 しかしながら、農工商の身分の者にあっては、武道をその天職としている訳ではない。
これに対して、武家にあっては、たとえもっとも身分の低い小者、中間、人足の類にいたるまでも、常に脇差を身から離してはならないのが掟である。

ましてや侍以上の身分の者は、どんな時にも腰から刃物をはずしてはならぬとされている。それであるから、心がけの良い武士は、入浴の場所にまでも、刃をなくした刀や、あるいは木刀などを用意しておくというが、これも勝負を忘れぬ心構えによるものである。

この様に、自宅のうちにおいてさえ、この心がけが必要なのであるから、まして、よそへ出かけて行く際には、往復の途上、または行った先においても、狂人、酒乱の者、またはどの様な馬鹿者に出会って、不慮の事態となるか分からないということを覚悟せねばならないのである。
古人の言葉にも、「門を出るより敵を見るがごとく・・・」などと云われている。

 武士の身として、腰に刀剣を帯びるからには、いかなる時にも勝負の心がまえを忘れてよいというものではない。
勝負の心構えを忘れなければ、自然と死を覚悟する心境にも通ずることができる。

 腰に刀剣を帯びていながら、勝負の心がまえが常にできていないような侍は、武士の皮を被ってはいても、町人、百姓と少しもかわらぬものといえよう。

  上、初心の武士の心得のため、申すものである。

【内省】

現代においては、「武士」を「男」と置き換えて解するのがよいかもしれない。
一度、家の外にでれば、現代といえど「暴漢」「他者を巻き込む自殺願望者」に出合うかもれない、私自身も、何度か理由なく絡まれたり、人を助ける為に、複数人の暴漢と闘ったことがある。
故に、常に覚悟はしているつもりだが、酒を飲むと、その覚悟を忘れているのが反省すべき所である。
つまり「死の覚悟」が足りないのである。

しかし、友山の文面からは
武を天職とする侍の、痛烈なまでの自負と覚悟が伝わってくる。
それがしばしば、百姓、町人を見下すような言い方になってはいるが、それも、各々の本分があるという意味で、悪気はないのであろうと思う。

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