プロレスをはじめた理由

よく聞かれること

よく日常やBARで聞かれ

その時々で

うまく伝える
時間やタイミングも無いので

17年経った今更ですが・・

恥ずかしながら
ここに記しておきたいと思います。

プロレスラーになる前

以前の記事でも
少し書いたのですが

私は、学生時代に
お金が無かったので・・

小学生のとき、給食費が払えなかったり
(国のお金で食べていた)

部活の、部費や遠征費が払えなかったり

高校(国公立)の授業料が払えなかったり
(国のお金で通っていた。しかし、成績が一定以下になると【援助打ち切り】)

という訳で。

給食費のことでは、
「お前ん家は、金払わんでええな!」とか
遠征費やコスチューム代が払えず
先輩に殴られたり、部活を諦めたり。と

不本意な事が多かったんですよね。。

でもね

誤解がないように

ただ一つ言っておきたいのは
私は、親に対する恨みなどは一切なく、今では尊敬もしています。

確かに、学生時代は投げやりになって
自暴自棄になっていた時期もあるのですが。。

社会人になって

そんな中で

マグロ漁船、花屋、ホスト、等々を経たあと

大阪で一人暮らしを続け
なんとか自分一人の生活なら「なんとかなるな・・。」
と思った時に

ふと、知ったのが

大阪プロレスの
「プロレス教室」でした。

そうしてこう思ったのです

昔やれなかった
好きな運動・スポーツを
思いっきりやってみたいな。。

と..。

大阪プロレス「プロレス教室」

プロレス教室は
カルチャー教室のようなもので

週に2回行われていました。

夜から2時間位の
大阪プロレスのプロレスラーが教えてくれる
リングを使った教室だったのです。

たしか、当時は

大人の部

子供の部

先生だったように思います。

意外に豪華な当時のメンバー

そして、その当時には現在活躍する

も在籍してました。

※現在は、道頓堀プロレス
プロレス教室(平野)を開催中。

まだみんな高校生や中学生・小学生だったので
すごく若かったです。

そんな中で

日常の生活の中

仕事に行ったあと
プロレス教室へ行ったあと

帰りに

当時、わたしの意中の女性の働いてる
バーへ行って飲むのが

ささやかな楽しみでした。

すごく綺麗で可愛い人でした♡

そして、半年位経ったある日

ふと知らされたのが

新人募集!入団テスト!!

なんと、開催されるではないですか。

当時、身長が180㎝はないとレスラーになれない!
と思い込んでいた私も、大阪プロレスの選手の
平均身長が170㎝位だと知って驚いていたのですが…

なら、俺もなるゼ!!!

やってやるゼ!!!!!

・・

・・・

微塵

思うはずもなく。。

でもまあ、ネタ位にはなるやろうし
記念受験くらいの気持ちで

まあ受けてみるかなぁ~

と軽い気持ちで受験を決めたのです。

教室のみんなの思い

そして、そんな動機が不純なわたしにも

確実に感じられた、当時の空気がありました。

それは

子どもたちの中で
将来プロレスラーになりたいけれど
ここに居ても、なれないのかな・・。

というような空気です。

過去、プロレス教室からは
数名が入団テストを経て入門していたものの

みんな、夜逃げなどで居なくなり

それがずっとずっと、続いていたので
教室には、教室の子らからは(入門しても無理なのかも..)
そんな空気が満ち溢れてたのです。

湧き上がる思い

そんな中で
私には、こういう思いが「湧き上がって」きました。

誰もなれないなら

誰もなれないと思っているのなら

俺がなってやろう!

俺がなれると証明してやろう!!

俺がなれるって背中を見せてあげたい!!!

そう思ったのです。

自分よりも年下の子の
落ち込む顔も姿も
見たくないですからね。

たしか、魯迅(ろじん)も、こう言っていましたよね。

「希望とは・・・(中略)もともと地上に道はなく歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

「道とは何か。それは道のないところを踏み歩いてできたものである。茨ばかりのところを切り開いてできたものである。」

魯迅

入門テスト

当時のテストは
確かこんな感じだったと思います。

  • 腕立て伏せ50×3セット
  • 腹筋100×2セット
  • スクワット500回
  • マット運動
  • 自己アピール

そしてまあ、後になって思うのですが
(自分が入門テストを見るようになって)

課題を全てできるかも大事なのですが

途中で諦めずに
やり続けられるか、闘志を失わずに闘えるかが大事で
それを見られている訳ですね。

そして当然、私もクリアできる訳でもなく

フラフラです。。

自己アピールにと取っておいた
「縄跳び二重飛び100回」も
スクワットの後で、全くできませんでした。。

でも、何故か合格したのです。

今思えば、察するに
当時は夜逃げする人間が9割だったので
雑用役も含め、多めにとっておこうという事ではなかったのかと
推測しています。

当時の合格者は

  • わたし
  • 小峠選手
  • 同期の酒〇くん

でも、小峠選手は
当時、高校生だったので卒業してからの
私より半年遅い入門に決まりました。

出鼻をくじかれる

試験が終わり

でも、もし合格したら
命懸けやし、もしかしたら死ぬかもしれん!
(マグロ漁船から命懸けの私は基本、心配性・・)

で、思い立ちました!

うん!今の内に
お世話になった人に「恩返し」しておこう!と

そこで、色んな人に食事をおごりに行っていたのですが

ある日、やってしまいました。。

お酒を少し飲んで
原付バイクで帰ってしまったのです。

しかも、止められたのは
ライトが点いてないという整備不良。

罰金は当時10万円(酒気帯び運転)

けれど、そんなの払える余裕もなく

どうすればと役人に聞くと
拘置所に入れば1日5000円の計算で清算できて
しかも、前科もつかないそうな。

なら、入ります!!!
入りますって!!!
入らせてください!!!

なんなら、檻の中で筋トレもできるじゃん!
(それが誤算だった!!)

という訳で、入檻を決めました。

ですが、拘置所に居る間に
どうやら合格していたらしく

大阪プロレスのホームページに
「合格した内田祥一さんに、連絡がつきません」
と書かれていたそうな。。

そして、筋トレできると思っていた「房内」は
動くのに許可が必要。寝転ぶにも許可が必要。
(この辺は、また別の折に詳しく書きます)

当然、筋トレなどできる筈もなく

入門した時には
テスト受験時よりも
はるかに衰えた体になっていたのでした。。。

その後

練習生のあいだ

65kgだった体重を80㎏まで増やし
骨折もしました。
(右足首骨折、靭帯断裂)
私の右足には、いまだにボルトが入っています。

骨折して、寮に居辛くなった私は
自力で治して戻ってきますと伝えて
一度、寮も離れました。

けれど、行く当てもなく

前に働いていた会社(出会い系サイトのサクラ)の
社長が借りた後のワンルームに入らせてもらい

つかの間の休息を得たのも覚えています。
(当時は、迷惑メールを大量に送り過ぎると回線を止められたり、遅くされるので、出会い系の会社は、一定期間で部屋を借り換え、回線を引き直していた)

真冬だったので、すごく寒く
松葉杖で足を引きずりながら
電気もつかない部屋に、寝袋で寝たのを
今でも覚えています。

たしか、北巽だったかな。

その後

友人の家を転々としていたら

先輩の的場選手から

「同期の酒〇では、仕事が回らないから戻ってきてほしい。」
と言われ。

まだ、びっこを引いた足で戻ったのです。

そしてスーパーJカップ4th STAGEのあと
カズハヤシ選手と、(当時、石狩太一選手)タイチ選手
お送りを遅刻するなどの失態を犯し・・

あぁ・・
なんか、長くて書ききれんので

また何かの折に書きます。

でも、何が言いたいのかというと

プロレスラーになったキッカケは
動機は不純だったかもしれませんが
自分より若い子に、希望を見せてあげたい。

そういう気持ちでした。

そしてプロレス教室からの
プロレスラーデビュー第1号となり

デビューするまで、してからも
沢山の人にお世話になり
その恩を返すまではと続けてきて

現在に至ります。

返すよりも
沢山の恩を受け続けて

いまだに返済はできないようです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました