関ヶ原戦場跡へ!

試合で名古屋に行ったので
25年来の願望だった
関ヶ原に行ってきました!

そして念願の「大谷吉継公」のお墓に!

関ヶ原とは

戦国時代、豊臣秀吉の後の権勢を巡り
徳川家康石田三成が戦い
その雌雄を決した戦場である。

徳川派(武断派) vs 石田派(文治派)

とも言われる。

徳川家康
石田三成

合戦までの経緯

天下人を狙い
亡き秀吉の子、秀頼を蔑ろにする家康に対して

決して戦向きとはいえない三成が

秀吉の恩に報いる為に兵をあげる。

しかし、これもわざと三成に挙兵させるように仕向け
自らの敵味方をはっきりさせ
政敵を完全に打ち滅ぼし、天下の覇権を握ろうとする
家康の策略であったともいわれる。

石田三成とは

若き頃に秀吉に見出され
政治実務で頭角を表し出世していく。

官吏を地でいくようなタイプで
政治実務は得意だが、戦は苦手。

いわゆる勉強はできるが
運動は苦手という感じ。
正義感は強いが、悪く言えば杓子定規で融通が利かない。
好き嫌いは激しい。

三成の逸話

わたしの個人的な記憶ですので
細部は間違ってる箇所もあるかもしれません。

島の左近

戦の苦手な三成が、自らの右腕となってもらうべく。当時、誰にも使えていなかった猛将・島左近に、自分に仕えてほしいと頼みに行く。
左近は、主君を諫めるも逆に怒りを買い。仕えていた家(主君)を去っていたのである。
自分より遥か年長者である左近に対して、こんなやりとりがあったと言われる。

左近「私は、主君に逆らい(忠告し、主君の思うようにしなかった)主君の面子を汚した不届きものです。それでも宜しいのか?(あなたにも、同じようにするかもしれませんよ)

三成「そこが、良いのじゃ」(自分に至らぬ所があれば、同じように忠告してほしい。私はそれを無下にしない、聞き入れる。)

三成「そこで、俸禄(給料)なのじゃが、2万石でどうじゃろう?」

左近「?! い、いけませぬ!三成殿の知行(給料・年俸)は4万石。主君と家臣が同じ俸禄(給料)などとは、聞いたことがありませぬ!」

三成「いやいや、そちは戦に秀でた老練の士。そして、戦の苦手なわしの右腕になってもらわねば困る。しかと決めたぞ!」

その後、関ヶ原の戦いにおいては、島左近は最後まで三成の為に奮戦し、討死にしている。

「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」
といわれるが。それには、こうした誠実で温情深い一面があったからこそ、左近のような逸材が仕えたと思われる。

知られぬ善政

関ヶ原の戦に敗れて、自らの領地の森に潜んでいるところ農民達に発見される。三成を捕らえて家康に差し出せば、大量の褒美がもらえる中、それでも農民たちは必死に匿う。

農民(庄屋?)「以前、飢饉の際には、三成様のお陰(年貢を軽くや、無税)で皆が助かりました。その御恩を今こそお返し致します。」

三成「いや。もしも、わしを匿っていた事がバレれば、そなたらが罰せられてしまう。恩義には恩義で答えねばならぬ。よい、わしを捕らえて差し出すがよい。」(そなたらが匿ってくれた恩を仇で返すようなことはできぬ。恩には恩で報いたい)

三成は他の大名からは、憎まれたり嫌われてたりもしたそうですが、自らの領地では善政を敷き。今も感謝されているといいます。
それは昔、まだ三成への評価が悪かった時代にも同じであったという。
歴史は勝者によって作られる一面もあるので、勝者の家康が三成を悪者に仕立て上げるのは必然・定石といえよう。
それでこそ、自らの正当性を証明する材料になるからである。

ここで、今回の一番の目的
大谷吉継の墓へいく

そんな吉継と三成の逸話。

大谷吉継とは

大谷吉継は、三成たちと同じく秀吉に見出され
実務、戦ともに活躍し(この辺が、三成との違い)出世していくが
癩病(ハンセン病、らい病)を患い
顔の皮膚も崩れてゆく為、白頭巾で常に顔を覆っていた。

関ヶ原の戦いでは、戦になるまでに
「勝ち目がない」と三成を何度も説得するも
それでも意志の変わらぬ三成を見るや
三成との友誼に報いるため
黙って西軍(三成の味方)として関ヶ原に参戦した。

三成との逸話

とある日、大名たちの茶会に呼ばれた折。茶碗を回してゆく時に(当時は茶を入れた茶碗を、順番に回していき皆で飲むがしきたり)、だが不覚にも吉継は、茶碗に顔からでる膿を垂らしてしまう。癩病の吉継、しかも当時は何病かも分からず、業病と言われ皆に恐れられていた。
周りの皆は、明らかに嫌悪の表情を示し、ざわつく。
狼狽する吉継。自らのせいで場の空気を壊し、しきたりを破らせることになってしまったと。
震える吉継の手。

そんな時

横から伸びてきた三成の手

茶碗をグンと取り寄せると
一気に中の茶を飲み干し
「うん、うまい!おかわりをくれ!」

と一言。

場の空気を壊さず、吉継の面子も守る(恥をかかせない)
戦が苦手な三成の見せた、豪胆さである。

吉継はこの時、三成の為に
命を投げ出す覚悟を決めたといわれる。

いざ関ヶ原へ!

説明の前段階が
思ったよりも長くなってしまった。

軽く流しただけなので
興味のある方は
いろいろ調べてみてください。

名古屋駅から東海道本線

朝、6時に起きて

快速に乗り「岐阜」へ
そこから関ヶ原駅に

関ヶ原駅

意外に簡単だった

レンタサイクル

関ヶ原はけっこう広いので
自転車の貸し出しまでしてくれる。

電動自転車もあるぞ!

でも、台数があまり無さそうなので要予約だ!

関ケ原駅前観光交流館
関ケ原古戦場記念館

の2ヶ所で貸してくれる。

それと
岐阜関ケ原古戦場記念館
には、コロナ対策で人数制限がなされてるとの事

これも要予約だ!

予約してみようと
調べていくと・・

よ、予約一杯じゃねえか・・。

という訳で、

岐阜関ケ原古戦場記念館に行く場合は
早めの予約をお勧めします。

残念だ!!

岐阜関ケ原古戦場記念館
関ヶ原の戦いに関する特別なお土産や軽食は、岐阜関ケ原古戦場記念館へ。歴史好きには見逃せないオリジナル戦国グッズを多数取り揃えるカフェ・ショップのご紹介です。古戦場・史跡めぐりで疲れたら、カフェのご利用が便利です。ゆっくりとお過ごしください。

そして、自転車を借りようとしたのですが

せっかく関ヶ原に来たのだから

足軽の気持ちを体験したい!

戦場で徒歩の下っ端。
縁の下の力持ち
足軽の気持ちを味わってこその関ヶ原!

そう、ならば徒歩で。戦陣を体験するぞ!

なぜか信長だけは「炭酸水」
カレーなる戦い Produce by ココ壱番屋

ロッカーには家紋がプリントされてる

せっかくなので
大谷吉継に荷物を入れようとするが

小さくてはいらねぇ・・

で、やむなく次に好きな
島津義弘にしようとするも

これも

小さくてはいらねぇ・・

なので、西軍副大将の
宇喜多秀家にインサート

いざ出陣じゃ!

西軍のルートを行進

陣地跡地は
基本、池っぽいのになってるぽい

ぽい。

細川忠興は東軍だが、道すがら

で、ここでなんだか
急にお腹が減ってきた。

よく考えたら
そらそうだ。

起きてから何も食べてねえ。

で、行軍中にローソンを発見!

いや「路応村」だ!

武士はくわねど

お腹減ってるから
ここは、ガッツリ食べて備えたいところ!

・・

・・・

ん?だが待てよ。

今日の俺は
関ヶ原で戦っている足軽兵だよな?

ガッツリなんて食えるはずない

そんな銭こに余裕のある足軽なんていない。

ましてや
サンドウィッチやカツ丼なんて

食えるはずがない。

俺は足軽

そして腹いっぱいになんてなったら
戦えるわけねぇ。

敵に打ち取られてしまう。

身軽でいなければ。

なので、選んだのはコレ

やっぱり「塩にぎり」だろう。

タラコやツナマヨなんてナンセンスだ。

戦国時代に、そんなものない!!

きゅうり漬け

炎天下での塩分補給として
「きゅうり漬け」も良い感じだ。

そう、おれは足軽兵。

どんどん進むよ

空き家なのか、屋根が落ちてこないように、支えてある。すごい。
北野神社
通り道
関ヶ原(蛙と鳥の鳴き声)
蛙と鳥の鳴き声
関ヶ原(川のせせらぎ)
川のせせらぎ

櫓気分

なんか登れる建物を発見。

登って見渡せる。

関ヶ原(櫓)
やぐら気分
立ち入り禁止(老朽化の為)

きれいな景色に
心が癒される。

ソーシャルディスタンスも関係ない

だって、人いないんだもん。

ノーディスタンス。

たまに老夫婦が
仲良くハイキングしてる位。

うらやましい。

これも

心が癒される。

竹林
風はつよい
関ヶ原(竹林)
竹のざわめき
決戦の地

途中でトイレもあるよ

ここで休憩

売店で買った「戦国水」

なぜか

「めだかの販売」と「革製品のオーダーメイド」を
同時に行っている。

「めだかの販売」と「革製品のオーダーメイド」

うーん

たくましい。

たくましい

関ケ原笹尾山交流館

関ケ原笹尾山交流館 | スポット情報 | 関ケ原観光ガイド
関ケ原古戦場の花形ポイント“笹尾山”で、想い出に残る甲冑体験を! 西に西軍・石田三成陣跡、正面には決戦地を望む、ロケーション抜群の関ケ原笹尾山交流館でぜひ体験していただきたいのが 「甲冑体験(有料)」です。甲冑は戦国武将になりきれるプレミアムから足軽まで、種類も様々。観光パンフレットの配布や観光情報
なんか、いた!

展示室

展示室
また、おった!!
んっ、この画風、どこかで見たような・・
こ、この名前は!

私のTシャツの絵を書いて頂いた

御歌頭さんでした!

大阪を離れても・・

鎧も着れる
ねずこ&たんじろう も
また、おった!!!

島左近陣地

笹尾山
開戦地
島津義弘陣跡

アクシデント

と、ここで靴の紐止めが壊れた!!

不吉な。。

山道の負担か・・
当時は、今よりもっと些末な草鞋だったろうから
なおさらだ!足軽の苦労が慮られる。

しかも、かつて踵を骨折した後遺症からくる
足首の痛みも増してくる

しかし、

しかし!

俺は足軽

俺は男

泣きとおすなんてできねえよ(河島英五)

こんな事では負けられえねぇ!

戦はまだ終わっておらん

鞄をまさぐり
見付けたアイマスクを靴下に詰め
応急処置をした。

まだ、大谷吉継の墓までは遠い!

宇喜多秀家陣地跡

ん?なんか社の後ろに

ちっこい社を発見

なんでこんな見つかり難い所にあるんやろう?

隠された社

道は続く

日差しが眩しい

なんか、結界みたいなんに囲まれた。鬼でも出るんやろか。

山道

そして遂に

到着した!

墓には、まだ新しい花が
供えられていました。

誰かが持ってきてくれるのでしょうね。

大谷吉継と湯浅五助のエピソード

関ヶ原での敗戦が濃厚になった時

大谷吉継は切腹を覚悟します。

しかし、病で醜く爛れた顔を
後世に晒したくないという思いから

家臣の湯浅五助に
自分の首を
誰にも分からない所に埋めてくれと頼みます。

吉継自刃の後

五助は吉継の首を埋めます。

しかし、ちょうどその時

敵方の将である
藤堂高刑(藤堂高虎の甥)にその場を見られてしまいます。

そして、五助は言います。

湯浅五助「そなたもご存知のとおり、我が主君は病により醜顔である。それを人に晒したくないといのが臨終の願いであった。そこでどうか、この事は内密にしてはもらえぬだろうか。さすれば、それがしの首を差し出そう」

藤堂高刑「承知仕った。」

そして二人は
形ばかりの槍を交え

五助は打ち取られるのである。

そして、その後日譚・・

論功行賞の場において
湯浅五助を打ち取った、藤堂高刑に徳川家康が

「湯浅五助といえば、世に聞こえし豪の士。よくぞ打ち取った!
しかし、五助ともあろう者が、主君の末路を見届けずに死ぬとは思えん。高刑よ、吉継の首のありかを存ぜぬか?」

もし、嘘をつき

それがバレては
褒賞どころか罰を受けるかもしれません。

けれど、高刑は言います。

「存じております。けれどそれは、男同士の約束ゆえ口が裂けても言えませぬ。
 五助は今わの際に、主君の首のありかを秘するのを条件に、それがしに首を預けました。
 でなければ、五助ほどの者が、易々とそれがしに打ち取られる訳がありません。
 ですので、吉継の首のありかは、例えどのような罰を受けようとも言えません。」

それを聞いた家康は

「大儀である。高虎殿は良い甥っ子を持たれたな」

と、褒美に短刀を授けたという。

嘘をつく訳でもなく
約束も果たす
そんな潔さが、この逸話にはあります。

五助の墓は、吉継の墓に寄り添うように立っている

平塚為広と大谷吉継のエピソード

小早川秀秋の軍勢15000人が裏切り
吉継に向かってきます
(大谷隊は兵力1500人)

吉継と平塚為広(900人)らは
三度も小早川隊を山の麓まで押し戻し
あわや秀秋の本陣にまで迫ろうかという勢いを見せます。

しかしその時

味方であり
小早川秀秋が裏切ったときの為に
吉継が備えで布陣させておいた

脇坂安治(1000人)
小川祐忠(2100人)
赤座直保(600人)
朽木元綱(600人)

までもが東軍に寝返ります。

総崩れになる大谷・平塚隊

そんな敗戦の中

二人の詠んだ
辞世の句があります。

平塚為広
「名のために 捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思へば」
(名誉の為に殉じられるなら、自分の命など惜しくはない。いずれは終わる命なのだから・・)

その返歌として

大谷吉継
「契りあらば 六つの巷にて暫し待て おくれ先立つ事はありとも」
(共に死ぬ約束があるのだから六道の分かれ道でしばらく待っていて欲しい。遅れて、あるいは先に死ぬことはあっても)

六つの巷というのは六道
そこへいく分岐点という事であろう

六道とは

  • 道(てんどう、天上道、天界道とも)
  • 人間道(にんげんどう)
  • 修羅道(しゅらどう)
  • 畜生道(ちくしょうどう)
  • 餓鬼道(がきどう)
  • 地獄道(じごくどう)

の事であって
このうち、天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)という

そなたが、どの道にいくのか、または地獄道に落ちるのかは分からぬけれど
どの道であれ、共に行こう。

という様な意味合いではなかったのかと
私は推測しています。

平塚為広碑

また、隠れ社があった。

もちろん入れない
なんで一個だけ大きいんやろ?

大谷吉継戦陣跡

この頃には
足の痛みは忘れてました。

でも、電車の時刻に間に合うように

走って駅まで行ったら
まあまあ痛かったです。

所要時間は6時間ほど

足軽舐めてたよ

ほんと。。

でも、墓参りの途中で
綺麗な景色も見れて

とても癒されました。

次回は、東軍のコースも辿ってみたいと思います。

もちろん

足軽兵として!!!

https://rekisi-omosiroi.com/asigaru-imi/
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コメント

  1. 木村忠啓 より:

    関ケ原愛に満ちた超力作ですね。すごい! 自分も何回か行っていますが、さっと見るだけでこんなに詳しくは見ていないです。勉強になりました。
    合戦場というのは住んでいる人からすれば、観光地化されることをあまり歓迎されていない風潮があって、実際の位置関係などがよく分からないことがあるんですよね。ところで、関ケ原ウォーランドは行かれましたか? なんともすごいところです。
    長篠、三方ヶ原なども歴史を感じさせます。時間があれば、ぜひ。

    • 内田 祥一 より:

      コメント、有難う御座います!!
      自分は、長年行きたかった場所なので「感無量」でした!

      関ケ原ウォーランドのHPも拝見しました!
      すごく面白そうで、ぜひ行ってみたいと思います!!
      (楽しみが増えました!)

      教えて頂いて、本当に有難う御座います!!!

      • 木村忠啓 より:

        コメントありがとうございます。
        関ケ原ウォーランドはつっこみどころ満載の「賃百景」みたいなところです。ちなみに、ウォーランドにあるのは「コンクリート彫刻」といわれるもので、東海圏に多く存在します。銭湯の壁画のように、芸術としてはほとんど評価されていないジャンルです。ウォーランドのコンクリート像は浅野祥雲さんという方が造られたものです。祥雲さんは下手うまというのでしょうか。作品はどれも少し脱力感があって、すぐに氏の手のものと分かります。祥雲さんのウィキについてリンクを貼っておきます。ウォーランドに行かれた際は、祥雲さんのことも頭に入れておくと楽しめると思います。

        https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E7%A5%A5%E9%9B%B2

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