子供と会うとき
少ない時間
いつも
子供たち(3人)と「ご飯」に行くと
基本、時間がない。
食べ放題なら、順に一緒に取りに行って
焼肉なら焼いてあげて
肉は小さく切って
熱いものは冷ましてあげる
店に入って(料理がきて)
30分位何も手をつけられないなど
ザラである。
そして、それと並行してやってくる
それぞれの子のトイレ。
料理を取りに行って→ 料理を取りに行って→ 飲み物ついて行って→ 飲み物ついて行って→
切って冷まして→子どものトイレ→ 料理を取りに行って→ 料理を取りに行って→ 飲み物ついて行って→
子どものトイレ→ 子どものトイレ→ 切って冷まして→ トイレ大→ 料理を取りに行って→ 子どもの トイレ
みたいなループである。
そんな中
一番下の子供だけ
毎回やたらトイレの回数が多い。
多いときは、2時間に5回位トイレに行く。
そして用を足した後も、なかなか出ない。
話ばかりしている。
何も食べてないわたしは
疲れたり、空腹で・・
「はやく出るよぉ~、ほら!早くしないと!」
などと言って急かす。
しかし、4~5回目になると
流石に口には出さないが、ため息をついたり
ほんの少しイラっとしてしまう時もあった。。
しかし、毎度毎度おなじことが続くので
少し疑問に思ってきた。
声なき言葉
そして、考えてみた・・。
よく。考えてみた。
考えると
一番下の娘は
私と過ごした時間が、
いちばん短い。
いつも、遊んだりご飯に行くときは
皆で一緒
それぞれの子に割く時間やお金も
極力、均等にと考えて接していた。
でも、もう少し考えてみると。。
同じ時間では
まだ一番年が幼く
表現力や語彙力の少ない下の子は
うまく意図を伝えることもできず。ともすれば、言葉を考えてる間に
上のお姉さんに会話を遮られることもあったのだろう。
そう・・
きっとトイレの中だけは
誰にも邪魔されず
わたしと話せる場所。
自分だけが父親を独占できる唯一の場所だったのだ ・・。
だから、あんなにトイレに行きたがって
ずっと話し続けていたのか。。。
知のゆくえ
この時ほど、自分の無知を恥じたことはない。
子供の気持ちを察する事もできず
ましてや、イラつくなどと。。
孔子は『論語』にて、「無知の知」について語っている。
知らない事を、知らないという事を知っている。
それが、本当の知るという事なのだと。
しかし、こんな時に込み上げてくる感情は
無知は罪なのか
とう問いである。。。
賢くなろうと、学んでも学んでも
いつも自分の無知故に、人を傷付けてしまう。
情けない限りである。。
けれど、ただ一つ、今できる確かなことは
これまで以上に
一番下の子に、「この子だけ」の時間を作ってあげること。
その時、以来
一人一人に日をとって
その子だけの時間を作れるように心がけているのですが
複数日仕事を休んで、4人の時間を作るのはなかなか大変で
更なる努力と
知恵を絞らねばならぬと思っています。
知のゆくえは
はたして何処へ辿り着くのでしょうね。
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