経年
人は歳を重ねると
過去に当たり前のように手にしていたものを
徐々に失っていき
今更ながら
その有難さに気付いたりしますよね。
人も
健康も
見渡せば
私の周りも
少しづつ
色んな人が亡くなっていき
私自身も怪我や年齢により
色んな身体機能を
失っていってるなと痛感します。
密かなお別れ
人でいえば
今生きている人にさえ
心の中ではすでに
自分の中でお別れを告げてる人もいます。
でもだからこそ
生きてる間に
できるだけの事はしてあげたいと。
思うのです。
たまたま
先日、遠征帰りに
繁華街を歩いていると
酔って叫びながら
自転車を次々に蹴り倒している
輩を目にしました。
私の頭に血がのぼり
ハッ倒したろうかと思いましたが
私の、道路を引きずる足がそれを抑えました。
まあ・・、それ以前に
今までの教訓から(今さら恥ずかしながらですが・・)
余計な事には関わらずにいこう
必要最低限の時しか、揉め事は起こすまい。
と。心には決めてるのですが
ふと考えました
それがもし
友人の自転車だったら
自分の自転車だったら
損得だけで考えるなら
関わるだけ損。
キ〇ガイは相手にしない。
ナイフで刺される可能性もある。
そう、関わらないのが正解。
そうそれが
100%正解なのです。
でも、その時最初に頭によぎったのは
「今は怪我をしているから、昔のようには動けないから」
という思考でした。
そう、損得でも、危険性でもなく
まず私の頭に思い浮かんだのは
自分自身への「言い訳」だったのです。
遠いむかし・・
私は昔
来る日も来る日も、戦に明け暮れ
寺で学問を習う際は真面目に話を聞かず
食事のときには他人のものを奪い
街中では柿や瓜をかじりながら歩いて
「尾張の大うつけ」と呼ばれていた。
訳ではなく。
むしろ、地味な人生を歩んできました。
しかし、どうしても避けられない状況
理不尽な出来事や暴力
誰かを守らねばならない時には
微力ながら闘ってきました。
危機は突然に
大抵は突然・不利な状況
1:4
1:5
という、私1人対他人数とういうのが常だったと思います
なので、勝つというより
負けない闘い。
何人かを倒し、その隙に逃げる
警察が来るまでの時間稼ぎ
みたいな感じでした。
しかし、ここ数年
薄々、気付いてはいたんです。
昔と同じような状況になっても
同じように闘えるのか
同じように誰かを守れるのかを・・
朽ちゆく体
少なからず長い、プロレス人生の中で
度重なる怪我や手術の結果
昔のように動くのは
右手と左足位でしょうか。。
ここ数年
ずっと不安が付きまといます
もし自分の家族や大切な人が
不幸で理不尽な災いに巻き込まれたら
自分には救うことができるのだろうかと・・
社会的な地位もなく
経済的な力も築けてこなかった
そして、今や最後の頼みの綱であった
力すら失いつつある。
そんな自分が、誰かを守れるのだろうか・・。。
そんな事を思うとき
ついつい酒を飲み過ぎてしまいます。
そして、そんな弱い父親で
良いのかと
娘に胸を張って、会えるのかと。
そして
過ぎてゆく日々の中で
色んなヒントを探すなかで
ふと、とある言葉を思い出しました。
根底にあるもの
それは、同じように(私ごときが及ぶところではないですが)
かつては、人を遥かに凌駕する力をもっていた戦士が
その力の根源を失い(それでも普通よりは強いのですが (笑))
自分は弱くなったと嘆き
自信を失い
戦士を、戦いを辞めようとするのです。
そんな時
彼の師が、こういいます。
戦士の最大の強さは
その力や技にあるのではない
その「心」にあるのだ。
と。
例え、欠けても・折れても
その言葉の意味を深く考え、踏まえつつ
醜くとも
もう少しもがいてみようと
中年のオッサンは、思うのでした。
本当に大切なものは
何かと考えつつ・・
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